2017年03月15日
半世紀以上経って・・・
「ばばの日記」
3月15日(水)晴れ時々曇り
毎月1日・15日は墓参りに行くことにしている。
今日は昨日までとしたら、青空も見える天気だったので
姉と2人で9時前に家を出た。
まず長姉の墓前で礼拝し、次に実家の墓へ。
小さな雑草がたくさん生えていたので、除草用の鎌を使ってきれいにした。
お酒とお水を替え、お線香を立て礼拝し、姉の婚家の墓へ行き
同じようにお参りした。
それから実家に寄って庭を見ると、雑草が蔓延っている。
「どうする?」と姉とアイコンタクト。
「じじさんが帰宅するまで、私たちも帰れるよね。
頑張って除草剤撒こう!」と、即行動。
4個の如雨露を使って、家の周囲や外の道路まで除草剤を撒いた。
作業が終わって、準備していったコーヒーを飲もうと思ったけど
あまりに天気が良すぎて暑いので、近くの研修館の庭まで行って
一休みすることに。
研修館は無人だったので、庭に車を止め
木陰にを探して、コーヒータイム。
コーヒーを飲みにながら、キョロキョロ辺りを見回してみると
今まで気づかなかった事に気づいた。
ばばが子供の頃は、研修館とかいう建物は無くて
集落の中心あたりに、青年会場という建物があり、
集落の演芸行事や、小学生の「学芸会」なども、この青年会場で行われていた。
又、子供たちの遊び場も、この青年会場周辺だった。
中では、おはじきやお手玉などで遊び、外では缶蹴り、かくれんぼ、鬼ごっこ
縄跳び等々・・・当時の子供の遊びを、学年混合でみんな仲良く遊んでいた。
その青年会場が、いつの間にか「老人と憩いの家」という名前に変わり
離れた場所に、新しく「研修館」という建物ができた。
建物は2棟あり、大きな建物では集落の催し事などが行われ
小さな建物は、台所のようになっている。
お弔いの時などは、この台所でご飯を炊いておむすびにしたり
お鍋で数十人分のお味噌汁を作ったりする。
以前は確か、婦人会の方々が
手作り味噌なども作ったりしていたと記憶している。
ばばは普段「研修館」と言い、聞き慣れてもいるので
この建物は「研修館」だと今日まで思っていたが
よくよく見ると「農業研修館」と書かれていて、「そうなんだ~」と初めて知った。
又、建物の右側には縦に細長い碑のような物が建っている。
これは「青年会場」の横にあった物を、移設したようだが
この「碑」が何なのか、しっかり見る事も無いまま
半世紀以上経った。
たまたま、今日、碑に書かれていた文字が気になったので
カメラを持って、近くまで行ってみた。

すると、碑の表面には「報徳記念」と書かれ、
左下には「上花徳字民一同建之」と書かれている。
どなたかの行為に対して、集落民一同で建立した碑らしい。
「誰が、どんなことをしたのだろう?」と気になり
碑の裏に回ってみると、そこには
「向井向?翁頌徳之歌」と書かれ、次の行には
「旭き?(読めない漢字1字あり) 牧石山ともろ共に
千代仰ぎなむ 君が?(読めない漢字)を」とあり
最後の行には「大正八年 七月十六日」と書かれている。

この碑は、ばばが子供の頃からあったのに、なぜ建てられたのかとか
親に聞いたことも無ければ、親も話してくれたことも無かった。
向井某さんという方が、何か集落のために尽力して下さって
その行為に対して、集落民一同で建立した碑だと言うことは分かったが
詳しいことは何一つ分からない。
大正七年と言うことは・・・・この碑が建てられて今年で99年になるのかな?
ばばの両親が明治40年と41年生まれだから・・・・
小学生の頃に建てられたのかなぁ・・・・
向井某さんは、集落の先人なのかなぁ?
どういう方なのだろう?
興味が次々湧いてきた。
今度、集落の大先輩と話す機会があったら、是非聞いてみたい。
ごくごく自分の身近にあった物なのに、半世紀以上経って
偶然、興味が出てくるなんて・・・
3月15日(水)晴れ時々曇り
毎月1日・15日は墓参りに行くことにしている。
今日は昨日までとしたら、青空も見える天気だったので
姉と2人で9時前に家を出た。
まず長姉の墓前で礼拝し、次に実家の墓へ。
小さな雑草がたくさん生えていたので、除草用の鎌を使ってきれいにした。
お酒とお水を替え、お線香を立て礼拝し、姉の婚家の墓へ行き
同じようにお参りした。
それから実家に寄って庭を見ると、雑草が蔓延っている。
「どうする?」と姉とアイコンタクト。
「じじさんが帰宅するまで、私たちも帰れるよね。
頑張って除草剤撒こう!」と、即行動。
4個の如雨露を使って、家の周囲や外の道路まで除草剤を撒いた。
作業が終わって、準備していったコーヒーを飲もうと思ったけど
あまりに天気が良すぎて暑いので、近くの研修館の庭まで行って
一休みすることに。
研修館は無人だったので、庭に車を止め
木陰にを探して、コーヒータイム。
コーヒーを飲みにながら、キョロキョロ辺りを見回してみると
今まで気づかなかった事に気づいた。
ばばが子供の頃は、研修館とかいう建物は無くて
集落の中心あたりに、青年会場という建物があり、
集落の演芸行事や、小学生の「学芸会」なども、この青年会場で行われていた。
又、子供たちの遊び場も、この青年会場周辺だった。
中では、おはじきやお手玉などで遊び、外では缶蹴り、かくれんぼ、鬼ごっこ
縄跳び等々・・・当時の子供の遊びを、学年混合でみんな仲良く遊んでいた。
その青年会場が、いつの間にか「老人と憩いの家」という名前に変わり
離れた場所に、新しく「研修館」という建物ができた。
建物は2棟あり、大きな建物では集落の催し事などが行われ
小さな建物は、台所のようになっている。
お弔いの時などは、この台所でご飯を炊いておむすびにしたり
お鍋で数十人分のお味噌汁を作ったりする。
以前は確か、婦人会の方々が
手作り味噌なども作ったりしていたと記憶している。
ばばは普段「研修館」と言い、聞き慣れてもいるので
この建物は「研修館」だと今日まで思っていたが
よくよく見ると「農業研修館」と書かれていて、「そうなんだ~」と初めて知った。
又、建物の右側には縦に細長い碑のような物が建っている。
これは「青年会場」の横にあった物を、移設したようだが
この「碑」が何なのか、しっかり見る事も無いまま
半世紀以上経った。
たまたま、今日、碑に書かれていた文字が気になったので
カメラを持って、近くまで行ってみた。

すると、碑の表面には「報徳記念」と書かれ、
左下には「上花徳字民一同建之」と書かれている。
どなたかの行為に対して、集落民一同で建立した碑らしい。
「誰が、どんなことをしたのだろう?」と気になり
碑の裏に回ってみると、そこには
「向井向?翁頌徳之歌」と書かれ、次の行には
「旭き?(読めない漢字1字あり) 牧石山ともろ共に
千代仰ぎなむ 君が?(読めない漢字)を」とあり
最後の行には「大正八年 七月十六日」と書かれている。

この碑は、ばばが子供の頃からあったのに、なぜ建てられたのかとか
親に聞いたことも無ければ、親も話してくれたことも無かった。
向井某さんという方が、何か集落のために尽力して下さって
その行為に対して、集落民一同で建立した碑だと言うことは分かったが
詳しいことは何一つ分からない。
大正七年と言うことは・・・・この碑が建てられて今年で99年になるのかな?
ばばの両親が明治40年と41年生まれだから・・・・
小学生の頃に建てられたのかなぁ・・・・
向井某さんは、集落の先人なのかなぁ?
どういう方なのだろう?
興味が次々湧いてきた。
今度、集落の大先輩と話す機会があったら、是非聞いてみたい。
ごくごく自分の身近にあった物なのに、半世紀以上経って
偶然、興味が出てくるなんて・・・
Posted by ibuchanじじ&ばば at 18:33│Comments(2)
│日常生活
この記事へのコメント
今まで気づかなかったような所に、埋もれた歴史の一部が・・・
子供の頃、毎日の遊び場所で、碑の周辺で鬼ごっこやかくれんぼもし、しょっちゅう触ってもいた「報徳記念碑」・・・そこに書いてある字を読んだ事も無く、
なぜ、あの碑が、あの場所に建てられたのかさえ、昨日まで興味も無く見過ごしていた・・・・
あの碑の事を知っている長老が、集落にいらっしゃるかどうかさえ定かで無い。あぁ~、無知だった自分が悔やまれる・・・・
身近な所でも、碑や胸像・銅像等を見つけると、すぐ近づいて、そこに書かれている文を読むのですが、一番身近な場所にあった記念碑の由来を知らずにいた事、本当に残念です。碑に書かれていた向井某翁さんと同じ姓の知人が何名かいらっしゃいますので、もしかしたら?何らかのお話を伺えるかな?と密かに期待しています。
分かったら、後日、又ブログに書きたいと思います。
昨日見つけた記念碑も、以前見ていた物としたら、気のせいか、上の方など大分細くなっているような気がしました。
毎年、何回か集落行事もある場所に建てられている碑ですが、あの碑に目を留めている人が何名いるのかなぁ・・・と思います。
記憶をたぐり寄せる間もなく朽ち果てさせないように、ちょっと積極的に動いてみましょうかね~。
子供の頃、毎日の遊び場所で、碑の周辺で鬼ごっこやかくれんぼもし、しょっちゅう触ってもいた「報徳記念碑」・・・そこに書いてある字を読んだ事も無く、
なぜ、あの碑が、あの場所に建てられたのかさえ、昨日まで興味も無く見過ごしていた・・・・
あの碑の事を知っている長老が、集落にいらっしゃるかどうかさえ定かで無い。あぁ~、無知だった自分が悔やまれる・・・・
身近な所でも、碑や胸像・銅像等を見つけると、すぐ近づいて、そこに書かれている文を読むのですが、一番身近な場所にあった記念碑の由来を知らずにいた事、本当に残念です。碑に書かれていた向井某翁さんと同じ姓の知人が何名かいらっしゃいますので、もしかしたら?何らかのお話を伺えるかな?と密かに期待しています。
分かったら、後日、又ブログに書きたいと思います。
昨日見つけた記念碑も、以前見ていた物としたら、気のせいか、上の方など大分細くなっているような気がしました。
毎年、何回か集落行事もある場所に建てられている碑ですが、あの碑に目を留めている人が何名いるのかなぁ・・・と思います。
記憶をたぐり寄せる間もなく朽ち果てさせないように、ちょっと積極的に動いてみましょうかね~。
Posted by ibuchanじじ&ばば
at 2017年03月16日 21:57

今まで気づかなかった様な所に、埋もれた歴史の一部がひょっこり顔を出している。何も言わず、人々が気づくことを待っているかのように。
改めて気にしてみると、いたる所にそんな場所があるのは徳之島も大島も一緒なのでしょうね。
そうした場所やモノや記憶に出会えるとワクワクします。
でも、早く気付いてあげないと、わずかな記憶を手繰り寄せる間もなく朽ち果てたり、開発行為で破壊されたり。
そうして、本当に失われてしまった過去もたくさんあるのでしょう。
なあんて、エラそうな事を言っては、アレコレ面白がっている「DEI」メンバーなのです。
徳之島にも、きっとそんな人たちがいるのではないでしょうか。
改めて気にしてみると、いたる所にそんな場所があるのは徳之島も大島も一緒なのでしょうね。
そうした場所やモノや記憶に出会えるとワクワクします。
でも、早く気付いてあげないと、わずかな記憶を手繰り寄せる間もなく朽ち果てたり、開発行為で破壊されたり。
そうして、本当に失われてしまった過去もたくさんあるのでしょう。
なあんて、エラそうな事を言っては、アレコレ面白がっている「DEI」メンバーなのです。
徳之島にも、きっとそんな人たちがいるのではないでしょうか。
Posted by DEI
at 2017年03月16日 08:45
